モラトリアム備忘録

 

いつもの前書き

はいセレンです. お久しぶりです.

12月に入りましたが,診断や自分の趣味の勉強ばかりで国家試験の勉強できていないのでそろそろ不味いと思いつつ,ちょうど届いた冬メックを明後日位にといて

立ち位置把握しつつ,きちんと勉強していきたいと思いました

まだ医学生ではあるけれど,卒業までのDutyを完遂して,国家試験に受かれば来年から医師として働くという過渡期に,いろいろ考える気持ちを何となく整理して残したいなと…

 

何をメモっておくのか?

時折Twitterなどで話題になる地域枠の問題も,今の感じ方と年配の医師が感じることと現役高校生が感じることて経験を経て変わっていくのかなと最近思いました.

まぁ価値観なんてみんな違ってみんないいというわけなのですが,

内科医の場合,多様な価値観をもつ患者さんとコミュニケーションをとり,介入していく必要があるので, 後輩や医学生だけでなく,患者さんも含めて内科医に求められる本質は「教育」だと思っています.

教育という分野を専門にするかどうかはさておき,教育をするうえで,人の価値観や考え方的な行動学を学ぶのはそうですけど,多感な若いころの自分がどんなことを考えていたかはおそらく数十年すれば忘れて,「近頃の若者は」という老害となるのではと思い少しでも思い出せるようにとかいてみたいなと

教育についての私の価値観

先にも書いてるように,教育の本質は介入にあって,知識や情報をつたえて行動変容を促すのが教育であるため,下で書く2点を胸にとどめる必要があるなと…

①教える知識が間違っている可能性や介入が取返しのつかないものになる可能性
②同じ情報であっても伝え方で,介入の結果が変わりうること,またそれぞれ違う価値観がある以上,伝え方が同じでも受け取り方や結果は異なる

 

①に関しては戦時中の教育という名目での洗脳じみた価値観の植え付けであったり,現在の医学部の講義でも,今教えている常識が数年後の非常識になることもある. 本当に正しいこととは? というKarl Popperの科学の本質は反証可能なことだという問いを忘れてはいけないと

②人の価値観を形成する家庭環境は本当に千差万別で,常識と非常識の概念は1個人の脳内でしか成立しないものだと私は思っていて

集団を限定するなどしないで使う場合は,自分の価値観を常識と押し付ける類の人なのかなと…

一例ですが

医学生のうちに国家試験に出ないような疾患ばかり勉強すると,臨床では使えない」

というパワハラじみた発言を本人は教育と思ってされる方チョイチョイ散見されたので
これを例にとってみましょう

医学生というが,医学生でも国家試験受かるのがギリギリラインの勉強の医学生もいれば,研究もしながら臨床推論などの勉強もして,USMLEも高得点で合格する医学生もいて,⇐(僕ではないですよ)
医学生」という記号でしか見れないのは,患者さんを記号としてしか認識できていないのでは?とか,実際のレベルが高い人見たことがなくて想像できていないのかな?と…
卓球の張本君も中学生のころから全日本でて,高校もインターハイすらでないという規格外な存在もいるし,医学でもネットが普及して情報の制限が少ない今,医学生でも相当規格外な存在がチラホラいるので,一概に決めつけてもどうなのかなと…

 

②医療の現場に出ていないペーペーの学生がいうのもあれですが
実際医療現場では,教科書じゃなくて患者さんがどういう風に困っているか?どう介入するかという答えのない中で悩みぬいているように感じます
だからこそいわゆる典型例だったり,Commonを抑えていないで,学生が難病の勉強ばかりしていると現場と違う! 正してあげないとと思われる方もおるみたいです

私自身,病院実習では,回る診療科で入院している患者さんの中で明確な診断がついていない症例や国家試験に出ないような珍しい病気の患者さんの受け持ちを希望していました.
というのも,私が臨床実習で掲げていた目標は「答えのないものに対してどう介入するか,それを決定する上で重要な情報を集めるための訓練」でした.

例えば,肺炎球菌性肺炎の患者さんというCommonな典型例を勉強するとき,そこらへんにあるイヤーノートやガイドラインが作成されていて,座学の勉強と変わりないことしかできないと感じました. 一方で自己炎症性疾患の患者さんなど受け持つと,未知のことの多さや医療の不確実性について痛感できますし,二次文献だけでなく,二次文献にすら載っていない疾患の調べ方が学べます.

もちろん研修医として現場で働く上では,肺炎球菌性肺炎のようなありふれた疾患の診断や治療をこなす重要さもありますが,学生で選択権も決定権もない中で国家試験通りの治療を見てそれを口頭試問で答えられて,医学の不確実性を忘れるよりはよいと考えています.

 

③最後に思うのは臨床では… という話に思うところは,臨床てすごい広すぎないか?と
学生の分際で何を言うんだという意見もありますが
うちの大学では,臨床医を専門分野を持たないと医師として… というありがたい指導のもと,いわゆる総合診療志望というと肩身の狭い思いをする大学なのですが,

実習で,BSCになった患者さんが容態が悪くなって再入院になってくるたびに文句を言っている専攻医らをみながら「総合診療や家庭医療分野が強い先生らの分野があれば訪問診療や往診である程度対応できるのでは?」と流石に直接言えませんでしたけど…

臨床の現場でどのセッティングでどの仕事をするかで常識や価値観は変わると思っています.

その点研修病院が同じ先輩であれば,その先生がその職場で感じた価値観が違うのではないかなと

友人でも,診断を主体にやりたいという価値観の人マネジメントに主眼を置きたい人もいれば,手術だけしたいと言っている友人もいます.

 

勉強会での思い出

これも最近よく思うことですが,

コロナ渦で,オンラインの勉強会が増えて,いろいろなところに顔を出させてもらう中で,

知識の前提や共有している価値観が違う人のディスカッションて本当に難しいなと

痛感しました.

 

違う大学だけど,勉強会で意気投合した,夢や情熱があって本当に医学が楽しいと思っている友人らとの勉強会では,グランドルールを設けているわけではないけれど

・各々忌憚なく,知っている知識をお互い吸収して切磋琢磨する

・試験対策にとどまらず知的好奇心を大事にする

・知らないことなど積極的に聞きつつお互いの知識を共有できる

という居心地の良い空間がありました.

 

というのも,大学6年生のこの時期に国家試験に関係ない知識が飛び交う勉強会に参加してこれる多分集団の中で異端の人たちが集まっているのですよね…

 

 

グループディスカッション形式では,

低学年の子から意見を聞いていくのですが,たまに勘違いしている場合や,覚え違いなどして意見する場面で,その子が萎縮しないタイミングで指摘するにはどうしたらよいだろうか?とか

あとあと自分の意見を言うタイミングで否定することになっちゃうなと思いながら

検査や所見に対して,こう考えているという説明をすると,説得されてしまって

集団をバイアスに引き込んでしまううえに,自分が意見を言った後に議論が終了する場面などあって,

自分が黙っていたほうが議論が活発化するのかなとか色々考えてしまいますね…

 

下の学年の子に何かを教える時も,一歩間違えるとだめだしに見えたり,集団の中で非難されていると感じる人もいるのかと考えると非常に難しいなと

 

アイスブレイクなどは行われますが,指摘したり,意見を言うときの信頼関係のようなものを構築するのは本当に難しいです.

 

ある程度は経験で慣れていく部分では有ると思うけれど,相手を慮る気持ちも鈍化してかないようにという戒めも込めて,今後も適度に悩み続けていきたいと思いました.